2016.06.14

  • 人×∞

個展「箱のなかに入っているのはどちらか?」作品解説その2

こんにちは、イシイです。
前回の個展「箱のなかに入っているのはどちらか?」作品解説その1に続いて、今回は作品「カタツムリ」の紹介と解説です。

「カタツムリ」

 

ステートメントでは、

手遊びで作るカタツムリは影絵でも簡単に表せられるのでよく使われると思います。片手をチョキでカタツムリの触覚を表しもう一方の手で握ったグーを上に乗せてカタツムリの丸い殻とします。手でその形が作られている間は見ている人の前に生きている本物のカタツムリのイメージが現れています。ところが、その生きている本物のカタツムリとは、どのカタツムリなんでしょうか。童謡に歌われるでんでん虫でしょうか?道に転がっている蝸牛でしょうか?お皿に並んだエスカルゴでしょうか?はたまた小学校の時に飼っていたマイちゃんでしょうか? 螺旋状にぐるぐると巡る終わりのない連想の階段を滑り落ちていく気分です。いっそ、その手首をちょん切って昆虫館のカタツムリコーナーに並べたらどうでしょう。そこからは生きている本物のカタツムリのイメージを観賞者に連想させるというよりも、それそのものが新種のカタツムリとして受け入れられるのでしょうか。作品「カタツムリ」は記号を意味する役目から解放された自由の身のカタツムリを展示しています。

と記載していました。

二人以上の人間が存在するときに、一方の人が見ている世界(=その人にとっての主観)と他方の人が見ている世界(=他の人にとっての主観)が必ずしも同じ世界であるとの保証はないが、お互いの主観が交錯した共通な世界を認識しながら世界を成り立たせているという、「間主観性」という用語があります。
間主観的な世界の中で、カタツムリの「記号」を用いてカタツムリを表現した時に、それをお互いに「カタツムリ」と認識しあいますが、一方の人が頭の中に描いているカタツムリと、他方の人が頭の中に描いているカタツムリは必ずしも一致しません。では、本物の本当の姿の「カタツムリ」とはなんなのでしょうか。

これは、哲学者プラトンのイデア論につながっていきます。
例えば紙に鉛筆で三角形を描いて「これは三角形です」と説明した時に、私たちはそれを三角形と認識します。ところが、その三角形をミクロで見ると三角形を構成している線は、線ではなく点の集合体であり、角が他にも存在してしまうことになるため、現実的に今の世の中で完璧な「線」を描くことはできませんし、そのため本当の意味での「三角形」は描けていないことになります。しかし我々はそれを「三角形」として認識します。
ではなぜそれを三角形として認識できるかというと、それはイデアというもの(=モノなどの原型みたいなもの)が存在していて、我々はそのイデアで構成されたイデア界にいた記憶があるため、見たモノにイデアを投影し、認識できるからである、といったことを説いています。 プラトンは「洞窟の比喩」という例えを用い、洞窟にいる囚人と影絵の話を交えてこのイデア論を説明しています。

なんだか難しい話です。

もうひとつ似たような話として、ソシュールの記号論の「シニフィエ」と「シニフィアン」というものがあります。「シニフィアン」は言葉とか文字、ここで言うなら「カタツムリ」とか「Snail」とかになります。「シニフィエ」は、「シニフィアン」によって表されるイメージです。つまり、僕らの頭のなかに描かれたカタツムリのイメージです。そして「シニフィエ」と「シニフィアン」が対になったものが「シーニュ」(=記号)になります。そのため、生まれた地域や環境、言語、今までに見てきたもの、聞いてきたもの、そういったことによって、「記号」が示すものが異なるというわけです。

であれば、この「手カタツムリ」を手首からちょん切ってショーケースに入れて昆虫館のコーナーに、「カタツムリ」というラベルを貼って並べたらどうなるのでしょうか。コミュニケーション手段の記号としてイメージを連想させる役割から解き放たれ、主体となった「手カタツムリ」は、新種のカタツムリとして受け入れられるのでしょうか。イデアのカタツムリがわからないのであれば、これがカタツムリでないと言い切れるのでしょうか。この「カタツムリ(のようなもの)」は一体なんなのでしょうか。

そうした言葉や記号のもつあやふやさみたいものを表現したのがこの作品でした。

チラシの解説文も、こういった背景を知って読むと、なんとなく読み解けてきます。

手の甲に眼鏡をのせて作った顔〈のようなもの〉を作って喋らせてみる。 〈それ〉を見た幼児が、ひどく怯えて目を背ける様子が印象深く思い出される。 〈記号〉として与えられた〈それ〉は、もはや手でもなければ眼鏡でもなく、顔でもない。 人の顔を不器用に真似ようとする得体の知れない顔〈のようなもの〉なのである。 〈記号〉は、モノ自体を代替する過程において、時にその不吉な相貌(かお)を覗かせる。 間主観的に〈それ〉の意味するものが何であるかの合意が成り立つ時、私たちは「それはしかじかである」という肯定命題を得る。 反対に、〈記号〉自体が真にモノとして現われる時、私たちは、〈それ〉を否定をもって指し示すことしかできない。 〈記号〉がモノとなる時、そこにはある種のおぞましさを伴ったマイナスの現実が立ち現れる。 意味から棄却された無意味は、意味の差延的再帰が生み出す亡霊なのだ。 今展に突如として現われたこのカタツムリ〈のようなもの〉は、テクノロジーとの融合によって貞子的なメカニズムを獲得し、〈のようなもの〉性を増した精緻な〈記号〉である。 その奇怪なヴィジョンは、この作品が一個のホラーであることを図らずも物語っている。

ちなみに、学問として哲学や記号論の勉強していたわけではないので、僕の解釈が間違っていて、説明に若干誤りがあった場合はお許し下さい。。

「カタツムリ」のギミック

テクノロジー要素としては、「移動する主体」の手カタツムリと同様に、指をモーターで制御して動かし、触覚が動いているように表現しました。

触覚を葉っぱに当てさせることで食べているようにも見えるし、キコキコ鳴っている音が昆虫感を醸し出しています。
3331アーツ千代田は、AIR 3331というレジデンスプログラムも行っているので外国人の方のギャラリー訪問も多く、「カタツムリ」は外国人の方に非常に評判が良かったです。

「カタツムリ」旅に出る

この作品「カタツムリ」ですが、今度は2016/7/24(日) ~ 2016/10/10(月・祝)に長野県の山ノ内町立志賀高原ロマン美術館にて開催される企画展に展示してもらえることが決まりました。「カタツムリ」以外の2作品については調整中です。

「カタツムリ」フォーク別館に展示中

展示保管用にカスタマイズした「カタツムリ」をフォーク別館に展示中です。電源を入れると動きますので、興味があればぜひ試してみてください。

最後の作品についても、また次のエントリーで紹介していこうと思います。

この記事を書いた人 :
イシイ

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